特集 看護教育50年の評価
あいまいな看護にいた40年の中で思うこと
富田 幾枝
1
1岡山県立大学保健福祉学部看護学科
pp.659-661
発行日 1995年8月25日
Published Date 1995/8/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663903695
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私が看護学校に入学した1955(昭和30)年は「鍋底景気」という不景気の年だった.その学校は近年廃校になったが,歴史の中で私の受験したその年の入学競争率はベビーブームの年に次ぐ高率であった.景気が悪いと看護学校の競争率が上がるともいわれた.友人が受けた看護学校は面接試験で裸で体操のようなことをさせたと聞いて,その学校を選ばなかった自分の幸運を喜んだ.とはいえ,私も面接試験ではみじめな,不愉快な思いをした.それはいまだに誰にも話していない.
近所の開業医が「看護婦になるなら日赤がいい,大学病院では医者が第一だ」と助言してくれた.母は赤十字に短期大学があること,大学にも看護婦になれる所があるといったが,わが家は経済的に最低の状態であったから大学進学はあきらめ,ささやかな未練から「医学部看護学校」に入学した.しかし,私の入学したその年に「附属」という2文字が頭に付いた学校名になった.教育学部の附属学校と違っていい気持ちではなかった.
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