連載 〈教育〉を哲学してみよう・2
教育の主体はだれか?
杉田 浩崇
1
1愛媛大学 教育学部
pp.762-766
発行日 2019年9月25日
Published Date 2019/9/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663201323
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教育は野生児を幸せにしたか:『野生の少年』の解釈をめぐって
『大人は判ってくれない』を撮ったフランソワ・トリュフォー監督の作品に『野生の少年』という映画がある。それは実際にフランスのアヴェロン地方で発見された野生児ヴィクトールと、彼に教育を試みたイタールの交流を描いている。
野生で育ったヴィクトールを人間化しようと感覚や文字を教えるイタール。「牛乳」や「水」などの基礎的な音声や文字を習得し、人間の生活に喜びを見いだし始めたヴィクトール。イタールの教育的愛情が徐々に実を結んでいく様子が描かれており、心動かされる映画である。だが、その「成功」の過程には綻びが垣間見える。ヴィクトールが家の外の草原を羨ましそうに眺めるシーンが差し挟まれ、野生への憧憬が日々課せられる勉強への不穏な反抗を匂わせるのである。実際、映画の最後にヴィクトールはイタールの家を抜け出し、野生の生活に戻ろうとする。だが、すでに靴を履き、裸では風邪をひくほどに人間化されつつあったヴィクトールには、木に登って木の実を採ったり、獲物を捕らえて食べたりするかつての野生の力は残されておらず、イタールの家に戻るという選択肢しか残されていなかった。映画は、ずっと愛情を注いできたゲラン婦人との抱擁と、イタールからの「勉強をしよう」という言葉に対するヴィクトールの何とも言えない表情という対比的な場面で結ばれる。
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