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はじめに
身体知を語ることは,身体そのものを語ることとは異なる。身体そのものについては,近代以来,多くの事実やデータが,生物学的,生理学的,認知科学的に概念化され,言語化されてきた。しかし,身体知については,これからいくつかの例で提示するように,その内容を語ることがむずかしい。事柄が難解だからではなく,身体知の多くが,われわれの生活における日常的で無意識の領域に属しているため,事態が自覚されて概念化されることがなく,したがってその概念についてのことばもないからである。非言語的な事態を,自覚的に言語化しようとする努力がなかったわけではない。「無意識の哲学・心理学」(E・ハルトマン,フロイト),「言語行為論」(オースティン,サール),「観察に基づかない知識」論(アンスコム)などの理論は,20世紀になって本格的に発達しはじめた。しかし不運なことに,ほぼおなじ時期に急速な発達をとげてきた,実証的で実用主義的な科学の理論に圧倒されてしまい,いずれも大きな発展にはいたらなかった。
われわれは日常的に,身体知について語る努力や作業を行っている。つねに健康を気づかい,身体が訴えてくる知を意識して表現しようとする。医者に不調を訴える患者は,記憶や伝達のために言語化を必要とするが,概念やことばがうまくあてはまらない「身体」の原事態を,どう概念化,言語化できるのかという,やっかいな課題に直面する。さらにこの課題を客観的に解決しようとすると,たいていは,医者がカルテに記す専門用語のような,既存の,実証主義的で技術的な科学のことばに頼らざるをえないが,それがまた,この非言語的なものの言語化という問題を,いっそう解決困難なものとしている。
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