特集 KJ法の思想と技術を学ぶ
実践の科学としての看護学にKJ法が果たす役割
佐藤 禮子
1
1放送大学大学院文化科学研究科教養学部
pp.18-23
発行日 2006年1月1日
Published Date 2006/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663100196
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はじめに
筆者にとってKJ法は,物事を考える時の身の一部のような存在となっているように思える。いや,正確には,KJ法という法理の一部が,というべきであろう。つまりKJ法のすべてがわかり,KJ法を使いこなしているというわけではない。しかし,かれこれ30年以上も前にKJ法研修会で学んだことが,看護学教育・研究の推進に役立ち,自己を成長させた起点となっていることは確かである。
看護学領域は,常に現場から物事を捉え,必ず現場へ帰していくという発想を必要としている。臨床看護の現場は混沌としている。看護学を発達させるには,その現場に潜む問題を顕著にして,問題の本質を考え,原因を追究し,その上で解決策を導き出す,という一連の思考と実際的手段を持つことが必須といえる。KJ法という手法に出合ったとき,筆者は看護学に必要な思考法であり,また実際的手段としても必要不可欠なものであると確信した。現実は,時間・空間が繋がり紡ぎだすもので,しかも瞬時の変化で創り出す現象である。現状を知るということは,時を止め,事を切り取り,事の時間経過を正し,新たな事象が姿を現わしてくるのを見つめるという作業である。
筆者は,KJ法と,その後にDr. Wilsonらに学んだ参加観察法(看護研究セミナー:1981年)によって,看護学研究に大切なこと,つまり問題は自分が見つけるのではなく,相手が語りかけてくれるのをそれとして受けとめることであるという発想を培ったと考えている。もちろんこの相手とは,人であったり物であったりするが,いずれも同じことである。
本稿では,KJ法から学んだことと,看護領域での活用の現状から,その役割について述べる。
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