沖繩の公看活動 第7回
先島—八重山 その2
浦野 元幸
1
1三重県衛生部
pp.82-83
発行日 1969年10月10日
Published Date 1969/10/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662204521
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§久部良割り
晴れた日には台湾がみえる。その最西南端の島,与那国。字,久部良の部落はずれの岸壁にたつと20数米も下に東支那海の怒濤が狂う。その岩壁に4〜5米ほどの裂け目がある。昔,妊娠3ヵ月になると部落の長老が深夜,ひそかにその妊婦をここに連れ出してその裂け目を跳ばせたという。余程の体力と気力がない限りは胎児もろとも暗い絶壁の海へ--。名づけて久部良わり。誰にきいても現実に知っている人はない。語りつたえとして残されている。宮古でも八重山でも重税で苦しめられた住民の苦悩は歴史とともに人頭石に刻みこまれてきた。人頭石というのは15歳になった男女の身長を測る石で,その石と同じ高さになると1人前として比類のない重税を賦課されたという。薩摩の沖縄征伐後1897年まで200年にわたる圧政,搾取の石である。
租納,比川,久部良の3部落があるが比川は租納へ移住しはじめている。幸いなことに空港があり,那覇から週2便の飛行機がある。糖キビ作りと漁業がその生業。貧しい。かつては台湾との交易もあったが今はない。長男を除く若い人々はほとんど島を出て働いて仕送りをしている。歌に名高い"なんた浜"は租納にあるが島にはみじんの甘さも許されない。
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