特集 保健婦現代史―そのあゆみとゆくて
第Ⅱ部 私の保健婦ノート
太平洋戦争前後と私
河村 郁
1
1前神奈川県公衆衛生看護学院
pp.81-84
発行日 1967年1月10日
Published Date 1967/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662203831
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よくも働いたものだ
戦前,私は結核予防事業に没頭していた。日本結核予防協会が早期診断をたやすく受けられるようにと,渋谷区に夜間診療所を設けていた。診療予防センターの名で診療と相談事業を夜間行ない,昼間は患者の家庭訪問,週1,2回医師とともに巡回し在宅患者の療養指導,感染予防と看護の指導を仕事とした。婦長の私と数名の職員であった。当時,東京で公費の療養所は中野くらい(現国立)で,入院申込後平均1ヵ年は待機せねばならぬほど,施設は少なかったからである。岡治道先生を中心に区内22校の学童にツベルクリンテストを実施をした。劃期的なことであったので,教員や父兄にその説明をする会議をもったり,事後の何かとの疑問に応対したものだった。協会本部では書記として予防思想の普及,療養の指導の月刊雑誌の編集発行,全国的予防週間の開催時使用のパンフレットを内務省衛生局の技師の方がたに執筆依頼し,大量に全国頒布業を担当した。世界結核予防ポスター展をしたり,今日のシールもその頃に始まったものだ.映画,音楽会,大相撲を主催したり,財界の大口援助を受けて,建設資金作りをしてできたのが茨城県在の晴嵐荘で,竣工後要請により軍用になった。今日の国立である。昭和11年,折柄の大雪の暁の事件,すなわち2・26事件が起こり,戒厳令の下,交通機関が一時止り,渋谷から大手町の協会へ歩いた。赤坂の高橋是清邸の前などビクビクして通った。
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