保健婦鞄とともに
Sさんの思い出(上)
竹村 美代子
pp.6-10
発行日 1956年3月10日
Published Date 1956/3/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662201130
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療養生活を始めてから,はや一年半も過ぎてしまつた.元気に働いていた日々のことは,日が経つにつれて鮮やかに思い出される.一般のくるしい生活と共にきりきり舞いをしていたその頃の自分の幼く,そしてひたむきな姿を,ベツトの上で思い起してみると,ただ一生懸命に働くことのみが正しい生き方なのだと考えていたのも,いまは却つてつまらぬ独りよがりであつた様におもわれる.かつての私が,そして今も尚,職場の友達が同じようにぶつかつている障害をもたらすものに対して鋭く関心の眼をむけずにはいられない.
さまざまな思い出の中で,忘れようとしても忘れられないのはSさんのことだ.この人の経験は,それ以前の私と,その以後の私に大きな変化を与えたのである.その思い出は私の心を重く,暗くする.ある時はその事で苦しんだけれど,自分を感傷的に,いくらせめてみてもそれ以上には発展しないということがだんだんとわかつて来た.今の日本の中で,このSさんのような運命が当然のことのように発生する社会に眼を向けて,本当に名ばかりの社会保障制度を,直視しはじめて来た今の私でも,時々自分の手術創がふと,疼くように,私の心に疼きをあたえて去来するのである.
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