--名古屋大学教授--斎藤眞先生の憶い出
斎藤さんの思い出
福田 保
1,2
Tamotsu FUKUDA
1,2
1東京大學
2第50回日本外科學會
1Medical Dept., Tokyo Univ..
2Fiftyth Meeting of the Japanese Surgical Society
pp.111-112
発行日 1950年3月20日
Published Date 1950/3/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407200609
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去る1月3日の新聞で,名古屋の斎藤教授が亡くなられたのを知つた際,驚いたのは吾々ばかりではあるまい. 斎藤さんを知る程の人々は誰でも,あのような元気な大きな肥満した体格をした斎藤さんが,そのように軽々しく亡くなられようとは夢にも考えられない. 脳溢血かな?と考えたが,新聞には肺炎とある. ベニシリンのある世に肺炎で亡くなると言うのは,斎藤さんの性格として平素の健康をたてにとつて,余程の無理をしたとしか考えられない. それ程仕事には熱心でよく働いていた. あの込みあう汽車の中を殆んど立ち通しに,大きな飯盒に2,3日の食糧をつめて,東京に出て来たことが戰時から戰後にかけて幾度かあつたのを知つている. かような苦労を物ともせずに極めて朗かに振舞つているのが常であつた.
私が斎藤さんと知り合つたのは今から26-7年前の大正13年5月以来のことであつた. 当時私は東大病理学教室におつて,斎藤さんの手がけた脳腫瘍患者の解剖をしたことがあつた. その患者は第四脳室から出たエペデモームの例であつたと思う. 当時は未だ今日のような脳腫瘍の分類がなかつたので,グリオザルコームとして報告されたと思うが,その時の組織標本を斎藤さんに差上げて大変喜ばれた. それが斎藤さんの論文に色ずりの版として出ている筈である.
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