らいを超えて・8
下位のおばさん(3)—今は恵みの島
前浜 政子
1
1長島愛生園
pp.860-864
発行日 1979年8月1日
Published Date 1979/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661918749
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
長島騒じょう事件
‘1食を割き半座の褥(しとね)を譲る’をスローガンとして,昭和6年(1931)の開園以来,年ごとに入園患者は定員数を超過し,昭和11(1936)年には定員890名に対し,入園者は1212名にもなった.予算の定員主義と収容の定員超過との矛盾は,患者にとり忍従の限界に達したのである.患者の作業謝金は政府予算に一文の計上もなかった.その財源はすべて衣食住など各予算の頭をハネてあがなわれたのである.
らい根絶,らい撲滅運動は各県に無らい県運動を活発にし,各地において強制的な集団収容が行使された.職員の間には,開園当時の情熱と愛情は次第にマンネリズム化し,官僚的傾向が強くなって,職員・患者間には相互不信の気分が濃く深くなり,園内の統一と調和が破たんにひんし,年来,うっ積した患者の不満が爆発したのである.昭和11年8月13日から8月28日まで,生活改善と自治権獲得のために,光が丘上におけるハンスト抗議に発展した.これが長島騒じょう事件で,長島のあゆみを知るためには筆をとらねばならない事件発端の概略である(下位のおばさんの語りをより鮮明にするため,長島愛生園略史を資料にした).
Copyright © 1979, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.