グラビア この時この1葉
学校看護婦の誕生—看護の広がり
坂本 玄子
1
,
山根 信子
1
1看護史研究会
pp.988-989
発行日 1999年11月1日
Published Date 1999/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661905957
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日本の近代看護婦の出現は1888(明治21)年,慈恵・桜井・京都の「最初の近代看護婦養成校3校」がはじめての卒業生を世に送り出した時といえる.彼女らは病院にとどまらず,大正期には巡回産婆や乳児訪問指導など社会に活動の場を広げ,「社会看護婦」「衛生婦」など多様な名で呼ばれていた.そしてそのはしりが学校看護婦である.
明治前半に国民の罹患率が5〜10%であった感染性結膜炎のトラコーマは,日清戦争(1894〜1895)で流行地・満州にて感染した兵士たちの帰還により日本各地に蔓延した.とくに学校の子どもたちに急増して罹患率は上昇,義務教育就学率にさえ影響を及ぼしかねない勢いであった.こうした動きに早く取り組んだ岐阜県は1905(明治38)年,医師検診と洗・点眼の費用などを支出する方策のほかに,罹患率50%前後と高かった竹ノ鼻小,笠松小から看護婦を採用した.これが日本最初の学校看護婦であった(ちなみに,従来最初とされていた福岡女子師範学校の採用は寄宿舎医務室での活動のためであり,生徒を対象にした保健活動担当の学校看護婦ではなかった).
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