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病院概史(その11)
Y Y生
pp.2
発行日 1950年9月1日
Published Date 1950/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541200194
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小石川養生所の維持費は,始め年額700両,後に840両に増額されたが,これは附属の42ヵ所の町屋敷から收納する借地料をもつて充てたのであつて,この地代が750両であつた。設立の翌年には養生所養病会が出ている。この養生所は維新迄も細々ながら命脈を続けたが幕末慶応元年には町奉行支配から医員多数安養院らに御預けとなり,維新後は鎭台に收められ貧病院と改められた。東大小石川分院の前身である。養生所設立当時は可なりの成績をあげていたもので,1723年には入院57,外来314であつたが,その年限り外来を打切り,入院は20ヵ月を以て退院せしめられた。入院患者が1925年260人,1787年には303人に達した大規模の施療宿院であつたが,漸次幕末に至り規定に拘り,人為的の不備もあつて衰微に向い名儀上の存在になつてしまつた。
1753年幕府口中科,外科,鍼科等の者の本道を兼修するものを戒め家業の専門科に出精することを令しているが,蘭法の外科と漢法の内科との勢力争いが激しくなつたのではなかろうか。というのは,1770年奥州一関医官建部清庵は,和蘭にも亦内沿医療あるべきを想い弟子をして江戸に遊学,和蘭内科の究明をせしめ,杉田玄伯と問答して和蘭医事問答を上梓していること。
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