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病院概史(その15)
Y.Y
pp.2
発行日 1951年2月1日
Published Date 1951/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541200271
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前號には各醫學校の勃興の事を記述したが,これらは規模の相違はあつても何れも病院が設立されたものであり,その病院の建物は亦前號掲載繪圖の山形濟生館のような洋式のものあり,日本式のものありというものであつたろうが,何れも外國醫師を教師に招聘していることから考えると,その病院の管理方式は洋式であつて,或は却つて最近の一部の病院よりも進歩したものもあつたように思われる。西洋病院史で述べたように醫學は格段の進歩をなしつゝあるときであり,特に外科學の進歩が病院の性格を強めつゝあつた時代であるから,西歐の病院の設備が擴充せられ近代の病院の形に近づきつゝあつたのに比べて,何といつても日本はやつとチヨンマゲがとれかゝつたという時代であるから,何から何まで目新しく,ひたすら西洋人醫師の差圖に從つたに違いない。外國では太西洋に海底電線が通じたという時代(1866)に,日本ではやつと東京横濱間に汽車が開通(1872)したという位の開きがあるのに蘭學が醫學を通じた如く,西洋事情もこれらの病院から文化を發散し,地方的にはこの病院の出現はいろいろの意味で威觀を呈したものに違いない。
Listerの消毒法(1865年創始)が日本で始めて使用されたのは,橋本綱常が大阪陸軍病院で,西南役の明治10年(1877年)の事である。
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