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病院概史(その16)
Y.Y
pp.2
発行日 1951年3月1日
Published Date 1951/3/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541200285
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看護婦養成所の最初に出來たものは京都同志社のものであつて,それは1886年であつた事は前號で述べたが,産婆の養成は1881年櫻井郁次郞が紅杏社を設け産婆の養成を始め,更に1892年には現在まで存續しでいる大阪の緒方助産婦養成所が創立され,緒方正淸の創始にかゝるものであつて,産婆を助産婦と別稱する始めでもあつた。
偖,前號迄に述べた如く,醫學校設立の爲に官公私立の病院が全國の政治の中心地に出現したのであるが,一方博愛慈善の精神による醫者と離れた救療病院の設立の氣運が起つている。先づ日本赤十字社の事であるが,1877年西南戰役に際し,元老院議員の佐野常民,大給恒等總督府に請い,戰地病院を設け,兩軍の傷病者を治療し博愛社と名付けたが,これが日本に於ける赤十字事業の淵源である。尚同戰役で熊本地方が惡疫に惱まされ,田代文基が北岡に假病院を設けて救療を始めたが,眞宗管長大谷敎正が18,000圓を寄附し,縣令もこれをたすけて,病院新築の資に充てた。1886年に東京に博愛社病院を開設し,皇后の行啓を仰ぎ開院式を擧げた。この病院は翌年博愛者が日本赤十字社と改稱するに當つて赤十字病院と稱するようになつた。そして1892年澁谷村に新築移轉した。日本赤十字が萬國赤十字條約に加盟したのは1886年で,歐洲16國が赤十字社を結盟(1864年)してより18年しか經つていない。
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