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病院概史(その10)
Y, Y
pp.2
発行日 1950年8月1日
Published Date 1950/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541200183
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西欧の東漸は益々活溌となり同時にわが国からも中国,南方,印度方面へ渡るもの多く,秀吉は遂に大陸経略の野心を起す(1592)に至つた。キリスト教も天下の動搖に乗じて再び国内に伝播せられるようになり,西欧医学の移入とキリスト教病院の復興が考えられる。朝廷及び秀吉政府は従来の漢法医を信じておつたろうが,恐らく将士は南蛮外科を,当時勃興して来た商人は西欧医学を信ずるようになつて来たものと思われる。
秀吉没後徳川家康次第に勢力を得るようになり,1600年3月英人Adams (後の三浦安針)来朝するや,家康は江戸に留めて顧問とし,その知識を尊重した。英国東印度会社が設立されたのは同年である。1603年徳川幕府が成立,伊達政宗は家臣支倉常長等68名を遣外使臣としてスペイン及びローマに派遣(1613—1620年)一行中の中条帯刀は西洋婦人科の医術を伝え中条流産科の祖となる。徳川幕府は,天下を平定し中央集権の実を上げる為に,儒教を以て教化の方針とし,秀吉にならつて再度天主教徒の弾圧を行つた。先ず1619年の京都における天主教徒の火刑,1626年の長崎における踏絵を行つた。
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