とびら
肢体不自由教育の中でPTとして考える事
一柳 勝治
1
1神奈川県立中原養護学校
pp.157
発行日 1977年3月15日
Published Date 1977/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1518101429
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過去から現在へ
むかし,特殊教育が廃人学校として初めて学制に登場した明治5年,その対象としての廃人(障害児)とは何を指していたのであろうか.おそらく,ある種の教育的配慮を加えれば,国家に有為の人材となる一部の障害児が想定されていたと考えられる.そこには「障害児」と「教育可能な障害児」という明確な二つの概念が存在している.教育可能とは生産活動に役立つ可能性と言いかえてもよい.この考え方が100年余り国民一般の常識としてきた意識であり,教育界もその例外ではないだろう.戦後,日本国憲法で教育権の保障がなされたかに見えるが,これとて,いわゆる重症心身障害児まで考えに入れていたかどうかは疑問である.事実,現在でも就学猶予や免除という名で学籍を持てない子供も多い.このような情勢の中でPTの果してきた役割は,「体育・機能訓練」という教科の担当者であり,障害のある四肢体幹に対し訓練を施すことであった.そこに求められていたのは教育者の資質ではなく,専門家の技術であったに違いない.
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