忘れられない患者さんに学ぶ
専門外の疾患にも目配りを
小澤 安則
1
1虎の門病院内分泌代謝科
pp.103
発行日 1994年2月15日
Published Date 1994/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1414901089
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私が生まれた翌年に広島と長崎に原爆が落ちた.幸いに他の地に生まれたが,小学校3年の時に父の転勤で長崎市に移り住んだ.そのころはまだ町のところどころに原爆で壊された建物が取り壊しや改修を待って残っていたし,同級生やその親兄弟縁者に,原爆で命を失った人や後遺症に苦しむ人たちが多くいた.私の住んでいた家は爆心地より2キロほどの所で,近所の人から敷地内のそこここに人が倒れていたというような話を聞いたものである.家の近くに,原爆被災時に救援活動をした長崎大学放射線科助教授の永井隆先生が白血病と闘いながら住んでいた家(如己堂)があり,そこの図書館にしばしば本を読みに行ったものである.その後,長崎の地を離れてしまったが,原爆や原爆症には今日でも特別に深い感慨を覚えてしまうのである.
東京にいても原爆手帳を持った人を診察することはしばしばある.幸いにして元気にしておられる人もいるが,多くの病気を抱えている方も診ている.その中で私より5歳上の婦人であるが,次から次と私の管理の下に手術を受けておられる方がいる.はじめは単なる慢性甲状腺炎による甲状腺機能低下症で補充療法をしていたのであるが,途中から甲状腺癌が疑われる硬い結節が生じてきた.さらに血中カルシウムが上昇し,アルカリPも軽度に上昇しはじめ,こちらは原発性副甲状腺機能亢進症と診断するに至った.副甲状腺腫と甲状腺癌を外科に頼んで一緒に摘出してもらった.その2年後,以前からあった子宮筋腫が育ってきたため婦人科で摘除術をした.
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