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ダブラフェニブ,トラメチニブ,パゾパニブ….皮膚悪性腫瘍に対する分子標的薬の効果を日々実感しているが,同時に心の中に苦い思い出がよみがえる.大学の助手になって間もなく,恩師からMAPキナーゼ(MAPK)の上流を探してみようと言われ,世界中で競争が激化しつつあった分野に身を投じた.毎週のように,一流雑誌がリン酸化の「黒いスポット」であふれていた時代である.当時研究者がしのぎを削っていたのは,細胞増殖にかかわるシグナル経路の要素を解明し,それを阻害する薬ができれば癌は制圧できる(そして大きなマーケットになる)と考えられていたからである.酵母のMAPKK,MAPKKKの配列をもとにクローニングに挑戦した私の実験は順調で,ほどなく新しいキナーゼの単離に成功した.しかし,当時「複雑系」にはまっていた私は,還元主義のど真ん中に身をおきながらもどこか冷めていて,不遜にも癌の治療はそんなに単純なものではないだろうと思っていた.そんな私に勝利の女神が微笑むはずはない.まごまごしているうちに,クローニングしたキナーゼがある日『Nature』誌に掲載されているのを見て,愕然としたのは言うまでもない.その後の還元主義の成果を応用した創薬,臨床試験,上市のスピードは,私の予想をはるかに上回っていた.最初に登場した分子標的薬は慢性骨髄性白血病に対するイマチニブであるが,その開発をめぐる物語を読んだとき,研究者たちの努力と情熱に感銘を受けると同時に,自分の不明を大いに恥じたものである.一方で,最近分子標的薬の使用によるさまざまな皮膚障害,全身症状の出現が問題になっている.また,分子標的薬で有棘細胞癌やケラトアカントーマが発生するといった逆説的な現象も起きている.これは,まさに「複雑系」のなせるわざではないだろうか.私が若いころに感じた漠とした違和感も,あながち間違いではなかったのかもしれない.
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