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「師というものは弟子に自分の身体を分けてやるものだ」先年こんな事を言われた事があります。聞いた当時は,そう感じ入つたという事も無かつたのですが,最近しみじみそういうものかなと思えてきました。勿論師匠が意識的に分けてやる等という事はあり得べくもない事であつて,これは弟子の方で先生の色々な面を真似する(言葉が少し適当でないと思いますが)ものだという事では無いだろうかと自分勝手に考えています。
東西の歴史に照してみても,偉人といわれた人には立派なお弟子さんが大勢おいでになります。これは先生はお偉いとして,そのお弟子さん達も,矢張り大いに勉学に励み,努力され,先生の教えを拳々服膺して,自らの言行を慎しまれたからだと思います。日々の自分を律している何ものかを,いつもは別に意識しないでいるのに,或る時ひよつと,考えてみたり,思いついたりしてみますと,それが嘗で教えを受けた事のある先生の真似である事に気が付く事があります。唯少し気になる事は,私が嘗て先生から教えを受けたその当時と現在とが,色々な面で余りに違いすぎて,恐らく私が先生から受けた時の感じとは大部違つた様にとられているのでないかと感ずる事があります。嘗て「こうして毎日4年以上も一緒にいて,勉強し,同じ家にも住んでいた事もあるのに,君を完全に米国式の物の考え方をする様に変える事は出来なかつた」と言われ,いささか驚いた事があります。こちらにしてみれば,日本に生れ,育つた30年,その私がそう簡単に変えられたんじやあかなわないと思つた事を憶えています。然し変らないという事は変つたという事であつて,矢張り私のものの考え方が色々な面で影響を受けている事も事実だと思います。
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