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私は,一年間のインターン生活を終えた昭和24年春,東大脳研究施設の小川鼎三先生の門に入り,脳解剖学の勉強をはじめた。昭和30年から32年にかけてのフランス留学から戻って1〜2年たった頃,小川先生から,私のかわりに「脳と神経」の編集会議に出るようにとのお話があった。ためらう私に,「なに出席して食事をして帰ってくればいいんだよ」とつけ加えられた。
小川先生のおっしゃりようには私のきわめて消極的な態度を打消す意味がこめられていたと思う。当時の私には他人の論文を審査することにつよい抵抗を感じていたので,それが態度にも表われたのであろう。これには理由があった。留学から帰ってはじめた研究の第一報を私は仏文で書いてArchives italiennes de Biologicに投稿した。これはヨーロッパでは伝統ある雑誌で,イタリアで発刊されながら,仏文と英文で書かれたものしか受付けないという思い切った方針でも知られている。当時はPisaのMoruzzi教授が責任編集をしていた。採用の通知を受け取ったものの,それにはMoruzzi教授の参考意見と2名の匿名の委員の批評が添えられていた。匿名の委員のものはそっけなく,大して長いものでなく,内容にもそれほど喫すべきものはなかったが,Moruzzi教授のものは普通のものよりは縦長のタイプ用紙2枚にフルスペースで,論文の内容に対するこまごまとした注意がびっしりと打ちこまれていた。こまかいだけなら驚くには値しないが,中味はこの論文を精読且つ熟考したことを示す的確さときびしい批判,それと同時に少しでもよいものを作ろうとする温みが文章の裏側に充分に感知できた。その上視野の高さと広さ,豊富な学識を基盤にして,現段階でこの論文のおかれるべき位置を示唆してくれていた。こまかいといえば引用文献の中に何冊か書籍が含まれていたが,私はその本の本文の総頁数しか記しておかなかったが,本文の前におかれている序文などを含む頁数を示すローマ数字を必ず記するよう要求された。これが欠けている場合は実際にその書物に目を通したとは認めないという。また私は論文の中で"dend—rite"をRamon y Cajalにしたがって女性名詞としてあつかったが,Moruzzi教授は男性名詞であるとして訂正を求めて来た。これらについて双方が納得するまで数回にわたり手紙のやりとりがあった。こうした個人体験を通じて,当時の私には他人の論文を読み,その採否をきめるなどということは私の能力の範囲をはるかにこえ,時機尚早であるとの気持が強かったのである。
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