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あとがき
萬年 甫
pp.540
発行日 1967年5月1日
Published Date 1967/5/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1406202220
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- 文献概要
名古屋の医学会総会も無事終了し,ひと息入れたところで5月号が刊行される。本号には特集として「脳幹の解剖と生理」が掲載されている。昨年秋米子で行なわれた第15回日本脳波学会総会のシンポジウムの記録である。筆者もその一部を担当したが,その際,慣用されているFormatio reticularisという語がいつ,誰によつて,どういう構造物に対してあてられたかを調べてみて,このことが少なくも解剖学的にはそれほどはつきりしていないことを知つてちよつと意外であつた。もつとも1800年代中頃の文献が手近にもつと豊富にあれば別かもしれない。しかし言葉は生きているというから,起源が明らかでなくても,ある時点ではつきり定義づけされ,それを共通の基盤にみのり多い議論が展開されるならばそれでよしとすべきかもしれない。
それにつけても思うのは,内容の明確でない外来語を各人各様に定義して議論し合うものの,話合いが一向にかみ合わないという事例が身近に多すぎる。医学教育の変革をめぐり,教授側と学生または修練生との間で論議される「カリキュラム」という言葉もその一例であろう。ある場合は「実習の日割」を意味し,ある場合は「教課内容」をさすという具合で,それぞれの利害得失をふくんで,自己陣営に都合よく解釈してしまう。議論でかみ合わず,無駄に時間のすぎるのもあたり前である。わるく言えばだまし合いであり,精々よく言つてお互に錯覚を楽しんでいるとしかいい様がない。実にやるせない気持がする。しかしこうした議論なら,まだ笑つてもすまされようが,こと学問や研究に関しては厳につつしまねばならないと思う。
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