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再び1931年頃の話であるが,私はBerlinから旅立つて單身Breslau市へ行き,Professor O. Foerstesの教室を見學せんとした。驛で降りて考へたことに,醫科大學へ行けば面會が出來るだらうと思つて大學へ出かけたが,そんなFrofessorはいない。Foerster教授ならば何處の病院の先生ですよと,云はれた。一寸意外に感じたことは,例へば日本ならばFoerster教授位の世界的學者ならば,當然大學の教授であらうと考へる所であるからである。そして私が訪ねあてて行つた病院と云ふのはWenzel, Hancke病院と云ふ大きな病院であつた。Foersterはこの病院の主任であつたのである。
私がProfessorの所に案内されると,丁度Prof.は研究室の一端に坐し,タイプライターを自らたたいて論文を作つておちれた。そのかたわらに高弟のO. Gagel氏がたつて.論文の材料について所見を述べていた。其處の空氣は何んとも云へない緊張した,全くすきのない場面で,學者生活の一面をまざまざと感じたことである。後でFoersterから直接うかがつた話により,氏は始め内科醫であつて,途中で神經病學を專問とするようになり,更に必然のコースとして神經外科を習得し,ついにあのやうな大家になつたと云ふことである。Ulr-ich教授をBeetzSommerfildの結核病院におとずれた時,教授自らのThorako-kaustekを見學さし貰つたが,同教授も内科醫から結核を專問として行くうちに,結核に關するすべての外科的手術を自ら行ふやうになつたと云ふことである。日本でも近來若い人の間に此樣な行き方をし始めている方があるやうであるが,今後は同樣な行き方をする醫學者が是非必要になつてくると思ふのである。
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