連載 Festina lente
淡々と
佐藤 裕史
1
1慶應義塾大学医学部クリニカルリサーチセンター
pp.151
発行日 2012年1月10日
Published Date 2012/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402105758
- 有料閲覧
- 文献概要
教育病院に長く勤めた医師の定年を祝う会に,教え子数百人が詰めかけた.立錐の余地もない宴席で,私の前方にいた元婦長が突然倒れた.通常なら大騒ぎの筈が,救急外来やCCUのヴェテラン揃いの宴席だから,数名が無言で瞬時に彼女を囲み対応を始めた.傍らにいた副院長は一瞥して「意識はあるな」と呟き,慌てる給仕に私は「担架を」と指示したが,それも待たず皆で四肢体幹を持ってあっという間に会場外に搬出したから,出席者の大半はこの一件を知らぬままだったろう.私は感服した.急変に慌てず騒がず淡々とてきぱき対応した若手医師たちこそ,四十年近くを研修医の指導に捧げた先生の実績にほかならない.実地医家は皆知るように,重症例や緊急事態への対応は淡々と冷静迅速にこなすものであり,怒声を上げ渋面で走り回るのは映画の中だけと相場が決まっている.
文楽の名人吉田玉男氏の代表作に近松『曽根崎心中』がある.徳兵衛がお初の胸に短刀を刺す道行は作中随一の見せ場で,太夫の声(「この世の名残,世も名残……」),三味線の太棹の冴えに観客は落涙する.しかし,人形を遣う吉田さんの表情は,僅かに眉間の皺に集中度がみえるだけで,動きには一切力みや衒いがない.往年の名ピアニストArtur Rubinsteinは,黄斑変性症で中心視力を失った八十歳頃からいっそう演奏に深みが出たと評判だった.舞台では背筋を伸ばし上体を微動だにしない.昨今のピアニストの思い入れたっぷりの身振りから遠く,激しいパッセージでも顔色ひとつ変えない.
Copyright © 2012, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.