- 有料閲覧
- 文献概要
小児科医・思想家の松田道雄先生は没後10年余,今もその名著『育児の百科』を求める人が絶えない.疾病各論の部分を外し,育児の普遍的部分だけが近年岩波文庫に入った.先生が英独仏の最新の文献に毎日あたって,同書の修正を亡くなる直前まで続けておられたのを知る人は少ないだろう.医療を超えて教育,文化,思想史まで幅広く地に足のついた膨大な著作を発表し,京都を代表する知識人であったことを知らない若手医師も増えているだろうか.
私が初めて先生の著書を手にしたのは高校生の頃で,小児科開業の一方で幅広く批評活動をしておられるのに惹かれた.知的視野狭窄への解毒剤であった.そのうち出た『わが生活 わが思想』に人生の総決算のような口吻を感じお手紙を出した.すぐに毛筆の返信をいただいた.「私は医者から敵視されているので抗議の手紙しか貰いません」とあり,医学生からの手紙も記憶にないとのこと―学生までもがこの在野の大知識人を異端視するのかと,日本の集団主義の圧力を感じた.国家試験目前の冬,二条城近くのお宅を訪ねた.80歳を超えて“New England Journal of Medicine”や“Lancet”はもとより“Journal of Immunology”に至る十数種の学術誌を購読しておられたのに圧倒された(蔵書は2万冊を超え,現在熊本学園大蔵).人間はここまでできるのかという感銘と,自分は何をやっているのだろうという自責の念を抱えて帰京した.卒後は内科研修の慌ただしさを縫って時折文通があった.精神科に転じる時は「難しい領域を選んだね」といわれ,英国を留学先にしたのは賢明だと後押しもしてくださった.交通事故の後遺症の長かった奥様を看取られた後,編集者に私を紹介され,ご自分の没後の手続きを葉書で書店に指示された日に亡くなった.
Copyright © 2011, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.