論説
衞生學のゆくへ
齋藤 潔
pp.37-38
発行日 1946年10月25日
Published Date 1946/10/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200042
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公衆衞生が時代の脚光を浴びて,わが醫學界の舞臺に雄々しく現はれて來た。再建日本の途上に生れた公衆衞生が,われらの土地でどんなに哺くまれ,どんな實を結ぶことであらうか興味深いものがある。公衆衞生とはいふまでもなくアメリカのPublic Healthの譯語である。民主國家アメリカにあつてこそ,公衆衞生といふ言葉もふさわしいが,今のわが世情では未だぴんと來ない樣である。Hygieneとか,Soziale Hygieneを説いてゐた衞生學者の唇から急にPublic Healthといはれて見たところで,まだまだしつくりしないのが當然でもあらう。
抑々公衆衞生といふ言葉自身に既に民主の臭が溢れてゐて,形や組織から來るものでなくて,本質の持ち味であり,民主主義の精神から流れ出たものである。公衆衞生が我が國で實を結ぶのは,吾等の身についた心からの民主思想と結びつく時である。公衆衞生を文字の上だけで理解せんとするならば,公衆のため,大衆のためでない衞生がありやう筈がない。衞生學の鼻祖Max Von Pettenkofferの流れを汲むわが國の衞生學は,公衆衞生の中の主として環境衞生及び衞生工學の部門に入るべきものであるが,これとても個人のみを對象としてゐる個人衞生ではない。即ち環氣,土壤,水,食物等の衞生であつて大衆を相手とする衞生學である。
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