公衆衛生 18巻5号 (1955年11月)

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先ず現状分析から

 石垣 最近新生活運動を鳩山内閣がはじめまして,生活改善が新聞紙上にクローズアツプされました。生活改善ということは特に終戦後地方では相当仕事をしております。たとえば農林省生活改善普及員,保健所の保健婦,栄養士などがそういう仕事をしてこられており,いまさら新たに生活改善というのもおかしいのですが,いまのトピツクスでありますので,一応国民生活における不合理性というようなところからごく雑談的にお話を進めていきたいと思います。なにしろ生活に矛盾撞着があるというのが人間らしいところで,不合理性がなくなつたら小説家は全員失業しなければならない。生活に不合理があるのは当然でありますけれども,しかし,日本国民は特にその点では目立つていろんな矛盾をはらんだ生活をしているように思いますので,ぼつぼつそういう実例あたりからお話をはじめていただいて,新生活運動についての卒直なご意見を拝聴したいと思います。その次にどういうところに障害があるか,それを克服する秘訣,あるいは成功した実例など,最後に公衆衛生の読者の保健所の所員,特にドクター,生活改善普及員,保健婦のかたがたの期待を一応含めて,御自由にご発言をねがいます。まず,実例を沢山ご存知の今先生あたりから少し国民生活への卒直な御批判を……。

 今生活改善という考えで国民生活をみますと,心の方面と,物の方面とこの2つがあるのじやないかと思つております。

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序論

 鳩山内閣が新生活運動を提唱してから,最近中央における運動母体となる組織もようやく発足し,又全国的にこの種の運動が改めて検討され,更に活溌になりつつあるのであるが,この新生活運動とは,真に自分たちの生活を高め,幸福な暮しのできる家庭,社会,国家を築きあげるために,地域や職場や家庭で力を合わせて,生活一般を改善し因習を打破し,物質的にも精神的にも豊かな生活を打ちたてようとする,それらの活動を総称して広く新生活運動と考えてよい。これをもつと端的に云いあらわすならば,新生活運動とは,民衆全体が協力し合つて,組織的に,継続的に,生活の計画的合理化を行おうとする実践運動である。

 このような運動が叫ばれ実践されるのには,必ずそのときの社会的必要性がある筈である。明治以降の我が国の新生活運動の歴史をふり返つてみると,明治17,18年の頃条約改正の必要から政府は欧化主義政策をとり,これに呼応して西郷従道,板垣退助等によつてつくられた風俗矯正会は,主として衣生活の改善を提唱し,婦女子の洋装,束髪を奨励した。これがいわゆる鹿鳴館時代である。しかしながら日清,日露の戦役後,国粋主義が拾頭し,反動として女学生の服装なども桃割,袴姿が流行した。

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 まずこの記録を読んで,私は相変らざる丹下坂さんの熱意に打たれたのである。前半の受胎調節の必要性を,じゆんじゆんと説いておられるところにしても,「何んだ,誰でも知っていることではないか」と酷評する人もあるかもしれない。しかし,それではあなたにはその知っていることについて,どれだけの事を実行してきたかと反問されたなら,それに答えられる入がどれだけあるだろうか。

 受胎調節運動というのはもうからない仕事である。金にならない仕事である。そのもうからない仕事に自分の生活をかけ,全力を傾倒するということは,実はそう簡単なことではない。私は女史のこの勇気と実行力には蔭ながら敬意を表してきた一人である。

上府中村の記録を讀んで 石垣 純二
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 上府中村の家族計画運動の記録を読んで,まず感じたことは,この村が本当に恵まれた条件にあったということ。早い話が,人口が2,600余の,大きすぎずまとめて行くのに好都合の規模であつた。神奈川県下でも,わりと富裕で進歩的な村であつたことは,すでに乳幼児指導で厚生大臣賞を受けている事実に察せられるし,それだけの実績を持ち,キヤンペーンに対する経験も積んでいた。

 さらに指導者の顔ぶれを見るとよい。日本最高級のメンバーをそろえ,さらに神奈川県衛生部までこれに肩入れをしている。これ以上の指導者陣は日本全国どこでも考えられないほどである。これだけの条件をそろえて成功しなかつたら不思議なくらいだ。といつて,私は村民や村当局の努力や熱意を軽視しようというのではない。そうではなくて,受胎調節運動の成功には,いかに必要条件が大変なものであるかに注意を喚起したいから,こう言つているにすぎない。

"住宅の改善"を讀んで 今 和次郞
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 目下の住宅政策は,在来の貸家というものをなくし,公営住宅と自家住宅との二種類が対立していくような方策がとられているといえるのであるが,その過渡期におけるデコボコが甚だしいので混乱した印象を与えている。急速に公営住宅を増そうとすると,一戸当りの坪数が小さくなり,一戸当りの坪数を豊かにとろうとすると,住宅不足をどうしてくれるということになる。これらの両方からの板ばさみで,住宅の標準的な大さを理論ずけようとしたりしているが,そのことは空転にとどまつている。もともと生きるためにどれだけの坪数の住宅が必要かということは,食物の場合のように,はっきりした数字が出ないのが住宅というものの性格だからである。そこで,小さい家をどのようにしたらば住みよくなるかという研究の意味もあることになるが,しかし,目下の住宅政策としては,公営住宅の数を増すことの急務から,半出来の家屋を多数提供して,住み手の資金で半自家的意味の設備を各自の手で充実させていく方針を,わたくしとしては考えたい。

 平面計画として引用しているいわゆるコア・システムといわれる原理らしきものにはわたくしは不服である。住宅というものは,都市計画や,停車場の設計と同じ原理では不適切である。家庭生活を営む場である住宅の中の人々の動きというものは,パチンコの玉のようであればいいというものではない。夫も,妻も,子供と,場合によつては,老人も単純な動きをする単位だと考えては誤りである。

実践報告・生活改善運動とともに歩んで

受胎調節指導の実際 丹下坂 宇良
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I.私の発意の動機

 私が受胎調節指導を思い立ちました第一は日本の母親はもつと幸福に暮すことが出来ないものかと言うことと,戦争によって起るいろいろの悲劇(戦犯,不具者,未亡人,遺兒)を此の世の中から無くすると言うことは出来ないものかと考え初めたことが発意の源をなすものでありました。敗戦によつて受けたいろいろの苦しみの体験が斯様に考えざるを得ない処まで追いつめられたのであります。それには先ず各々の家庭の主婦達が,それぞれ其の財力と体力に応じた家族計画から出発した生活に改善することによつてなごやかな家を営むことも可能であり,家庭から争をなくすることも出来るし,それによつて平和な村や町が築かれ,それこそ真の平和国家建設であると思いましたのであります。

 第二は昭和26年8月講和会議の際に各国に訴えるものとして吉田前首相の携帯せられたものに,人口白書と言うものがあることを三大新聞に発表せられました。其内容は輸出の振興,移民,産兒制限の徹底と言う三項目でありました。

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 小田原市に昭和29年12月1日合併した上府中村は,村当時家族計画を指導し全村挙げてこれが実施に協力して来たのである。

 この事業は,当時の村長神野作十郞氏,婦人会長太田きさ氏,女子靑年会長富田キヨ子氏並びに関係団体の連絡協調によつて計画され,昭和25年9月から実施,特に後任の村長根本芳太郞氏によつて更に強力に展開され,今日に至つたのである。

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住宅改善の基盤となるところ

 1955年の総選挙で,多数党となつた民主党政府は,42万戸の建設を重要な政策の一つとして公表した。

 歴史的に,庶民の住宅問題に対しては頑固な無関心さを示して来た日本の政治家が,数字の上だけでも,具体的な形で住宅建設を表明したことは,全く印象的なことである。(註1)

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 高くひくく起伏する連山に囲まれて点在する40戸の閑村農村の雑然とした家なみの中にも,何か知ら清潔な明るい物を感じとる迄に変つて来た生活と姿を,部落の中央に風雨にさらされ乍ら4年有余「生活改善モデル地区」としるされて236人の目に心に生活に良き道しるべとなつて立ち通した標柱はどの様に物語つてくれるでしようか。

 私はここに生活改善運動の糸口を静かに振り返り乍らたぐつてみたいと思います。

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 山形県最上郡戸沢村大字古口は,最上川が出羽丘陵に阻まれて,庄内平野に抜けるやや広い峡谷の中に左右に覆われ最上川がつくつた段丘の上に水田,中央を東から西へ最上川が流れ,支流角川,鮭川の2川を合流し,又最上川に沿つて二級国道酒田石巻線が通じ鉄道陸羽西線も併行して古口,高屋の2駅があり,舟運陸行共に交通上の枢要の地となつて発達した村である。最上川は,こ辺で幅員が240米,いつも満々と湛え従って昔からの記録に,口説に,この川の水害の過去が語り伝えられて居り,明治12年の住宅83戸の流失,昭和19年には住宅24戸の流失,続いて昭和22年には真柄堤防の欠壊,黒淵山の地辷りの記録などは惨害の新しい歴史でもある。昭和8年東北地方を襲つた冷害のため,大凶作となり,村は極度の疲弊困憊に達したが,この災禍に遭つて村民の心の裡に強い更生の気運が捲き起つたのである。そして翌9年県の経済更生の指導村として,その指導下に経済更生5カ年計画を樹立し,産業,経済,土木,衞生,教育,文化の全般に亘る振興計画が推し進められ,村内十部落の地域に亘り部落住民の総意による適応した部落更生への実践が展開されたのである。県は特に昭和9年村の中心である真柄部落を栄養模範地区として指定し,その指導下に食生活の改善,山羊飼育,色付野菜に食用油,菜種栽培,共同養鯉の奨励等を実施し,農家経営に即応した体力の向上と健康の増進に努力してきた。

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 本村は山間僻地にて村内耕地少なく,為に余儀なく農家の大半は,隣村の赤阪村並びに東条村に耕地を有せる関係上男子はもとより,婦女子も共に農事に励み殊に農繁期などは未明に家を出で夕べに星をいたゞきて,家に帰る始末にて,その労苦察するに余りある状態におかれ,然も井戸水は辛じて,一部落に1カ所中には遠く谷川に求むるなど,1回の水汲も数時間を要し,365日それこそ1日もかくことの出来ない家事作業,就中,炊事に至りては主婦の労苦と,その疲労まことに悲痛なるものを覚ゆ,加うるにその飲料水たるや実に水質惡く,一面家庭には天水を溜め置き,入浴用,又洗濯に使用する関係上,自然清掃が不潔で衛生上,詢に寒心に堪えず,今昭和27年度迄,過去5カ年間の消化器系伝染病の発生状況を見ても1カ年平均1万人当り50人の多数に上つている。かくの如く年々惡疫流行し,村民の不安におのゝき自衛上之に順応せる設備の必要緊切を加え村民の要望と共に茲に簡易水道敷設の計画を樹立した。

基本情報

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公衆衛生
18巻5号 (1955年11月)
電子版ISSN:1882-1170 印刷版ISSN:0368-5187 医学書院

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