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1 はじめに
今回,編集部から,拙著書名をもじった「誰がために精神分析はある」なるお題をいただいた。このお題が筆者への揶揄でないならば,「自分のことを好きに書け」という指令と解して差し支えはあるまい。ならば,あいわかった。好きに書かせていただく。
まずは告白からはじめよう。筆者には,憧れの対象を近づくや敵前逃亡してしまう癖がある。たとえるならば,最愛の人に焦がれつつも,いつもあと一歩のところで臆してしまう感じだ。もちろん,それで二番手を身の丈に合った相手と考え,そこに安んじることができれば,何の問題もない。しょせん,人生とはその手の妥協の連続だ。問題は,いつまでも未練がましく,一番手への憧憬を捨てきれない場合に発生する。特に筆者の場合,その手のタチの悪さが目にあまるのだ。いかにも暗い顔をして二番目との関係に甘んじながら,始終,二番手に当たり散らしているひどく不機嫌な男……。それが筆者だ。
誤解しないでいただきたいが,恋愛や結婚の話をしているのではない。筆者自身の専門分野の選択に関する話をしているのだ。
振り返ってみると,筆者はいつもこの種の「断念」と「未練たらたら」をくりかえしてきたという実感がある。まるでトーマス・マンの小説の登場人物のように,奔放で陶酔的な世界に強く惹かれ,そこに嫉妬と羨望を抱きながらも,現実には,悪目立ちして同業者仲間の不興を買わないよう,逸脱を控え,小心翼々と小市民的生活を維持している……。そのような断念と未練たらたらの最たる対象が,筆者にとっては「精神分析」だった。
なお,ここでいう「精神分析」という言葉は,厳密な意味での精神分析と同義ではない。そもそも,平均的な精神科医は,ある心理療法の流派が「ガチ精神分析」なのか,それとも,力動的志向性をもった「精神分析もどき」なのか,といった区別にはさほど関心はない。それどころか,精神分析や力動的精神医学のみならず,心理社会的な観点から人間を理解しようとするアプローチは,すべからく広義の「精神分析」なのだという思いさえある。乱暴で雑かもしれないが,医者の認識というものはこの程度だ。
ここで言葉の定義をしておこう。本稿でいう「精神分析」とは,生物学的精神医学とは異なるものであり,多数例を対象として統計解析を駆使した計量精神医学とも異なるものだ。つまり,「サイエンス的なるもの」ではないもののすべてを指す。あえて名づけるならば,個人のナラティブや物語を重視するという意味で,「ロマン的なるもの」となる。
なるほど,その意味では,筆者の精神科医人生はサイエンスとロマンとの相克といってよく,サイエンスの領域に身を置きながら,ロマンに対する憧れと屈託を抱き続けて今日に至っている。本稿では,精神科医に立場からそのあたりのことを書いてみたい。

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