投稿論文 論説
臨床の経験から見た「なにもしない」ことの意味
塚崎 直樹
1
1京都精神保健福祉推進家族会連合会
キーワード:
なにもしない
,
治療関係
,
河合隼雄
,
臨床経験
,
沈黙と共感
Keyword:
なにもしない
,
治療関係
,
河合隼雄
,
臨床経験
,
沈黙と共感
pp.763-711
発行日 2025年12月5日
Published Date 2025/12/5
DOI https://doi.org/10.69291/pt51060763
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本稿は,精神科医としての約50年の臨床経験をもとに,「なにもしない」ことの意味について考察したものである。筆者は河合隼雄の「心理療法の究極はなにもしないことである」という言葉に着目し,これは単なる消極的態度ではなく,治療者が意識的に「存在する」ことそのものの意義を示すものであると捉える。治療過程では,具体的な技法や発言よりも,治療関係そのものが治癒に寄与することが多く,治療者の「なにもしない」姿勢が,患者の自己治癒力を引き出す重要な契機となる。実際の臨床では,治療者が意図的に何かを「する」ことよりも,患者の内的世界に寄り添いながら,必要以上に介入せず,その場に共に「いる」ことの重要性を痛感した事例を紹介した。また,河合隼雄と関わった川戸圓,皆藤章らの報告を参照し,「なにもしない」ことが単なる放任ではなく,深い共感や沈黙,治療関係の場の維持,自己と他者の境界の曖昧化など,多層的な意味を持つことを論じた。さらに,カウンセリングに対する社会的イメージや先入観が,クライエントの体験に影響すること,治療終結とは「なにもしない」場の成立と変化の自覚にあることを指摘する。最後に,臨床家の自己形成は「なにもできないこと」から「なにかをすること」を経て,「なにもしない」状態に至るプロセスであると総括した。

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