連載 ケースの見方・考え方
精神療法における治療的回心(濱田)――人為のさかしらを超えたもの
井原 裕
1
1獨協医科大学埼玉医療センターこころの診療科
pp.773-780
発行日 2025年12月5日
Published Date 2025/12/5
DOI https://doi.org/10.69291/pt51060773
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Ⅰ 小論の目的
小論は,濱田秀伯の「治療的回心」(濱田,2021)の概念を,キリスト教に限定しない精神療法的事象として捉え直すことを目的とする。まず,濱田の神律療法と治療的回心について触れ,次いで,精神療法における患者に対する治療者の役割を考えるうえで,キリスト教における回心と伝道との関係を参照する。ついでキリスト教とその影響下にある実存の哲学が伝道をどう捉えたかを概観する。さらに,実存の精神療法を企図して挫折したLaing RDの思想を,条件付きで再評価する。以上の予備的考察をもとに,神学における「回心」の例としてのAugustinusの『告白』を,次いで,神学とも実存哲学とも無縁でありながら,図らずも治療的回心の可能性を示唆した作品として,黒澤明の映画『生きる』の主人公渡辺勘治のケースを取り上げ,自験例とともに考察する。結論として,精神療法にできることは治療的回心をもたらすことではなく,そのための場を作ることであり,最終的な治療の成否は,人為のさかしらを超えたものに委ねられることを示す。

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