連載 話したくなる 整形外科 人物・用語ものがたり
第13回
「ペリーの黒船来航と,いとあやしき病」
小橋 由紋子
1
1日本大学医学部附属板橋病院放射線科
pp.930-931
発行日 2023年8月19日
Published Date 2023/8/19
DOI https://doi.org/10.18885/JJS.0000001492
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Matthew Calbraith Perry(以下,ペリー)の黒船来航は日本の歴史でも大きく取り上げられているが,実はそれ以前にも外国の船は日本を訪れている。例えば,1792年,蝦夷地に来航したのはエカチェリーナ号(ロシア)である。その当時,江戸幕府(第11代将軍徳川家斉)は「日本の窓口は長崎だからそっちへ行って」と長崎への入港証を交付してロシアへ帰国させている。1804年には,再びロシア使節レザノフが長崎の入港証を持って来航している。このときはレザノフを半年ほったらかした挙句,入港証を取り上げ,ロシア皇帝の親書の受け取りも拒否して追い返してしまう(このためロシアから択捉への攻撃を受けた)。その後,1808年にイギリス軍艦「フェートン号」,1837年に浦賀に来航したアメリカ商船「モリソン号」など,複数の外国船が来航している。このような多数の外国船の来航は江戸幕府に国の維持や防衛について早急に対策しなければならない危機感をもたせた。そりゃそうだ,北からロシア,南からイギリス,東からアメリカが大きな船でじゃんじゃんやって来るのだ。ペリーの浦賀への来航は実際のところ1853年7月8日であり,ずいぶん後のことである。このときペリーは,日本の測量とアメリカ合衆国大統領国書を幕府に渡し,10日ほどで去っていった。その後すぐに第12代将軍 徳川家慶が亡くなったことを聞きつけたペリーは,1年後という約束を反故にし半年後に6隻の船で来航し,1カ月の協議の末,日米和親条約を結んでいる。
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