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1.はじめに─あるがん患者の人生物語
人々は,日々の出来事を経験として組織し,ライフ(人生,生活,いのち)を意味づける行為をしながら生きている.ライフストーリーを語ることは,人生のどの時期にも重要であるが,とりわけ老年期には,臨床ケアの実践に大きな意義をもつと考えられる.
老い,病い,事故,災害,失職,死など,人は人生を生きるうちに自分の意志や努力だけでは,どうにもならない出来事や,必ずしもポジティヴとはいえない人生の出来事(ライフ・イベント)に出会う.それらの出来事を意味づけ,生きていくために人は物語を必要とする.
人生の出来事は変えられないが,人生の物語(出来事の組織化のしかた,編集のしかた)は変えることができる.人生の物語を変えるということは,人生の見方,世界の見方を転回(ターン)させることである.
あるがん患者の女性は,告知を受けたあと,自分がどうしてそのような病気になったのか,どうしてもっと早く気づかなかったのか,あのときあそこで病院へ行っていればこんなことにはならなかったのに…と際限なく「過去」を悔やむ思いがあふれてきて涙がとまらなかった.生涯独身で定年後までけんめいに働いてきたので,これから少しは旅行でもして楽しもうと思っていたときだった.これではあまりにひどいではないかと神様を恨みたくなった.見舞いに来てくれる知り合いはあっても,本当の気持を話せる親しい人はなかった.もし,話したとしても,誰にも自分の気持などわかってもらえるはずがないと想うと,ひしひしと孤独感がつのってきた.まじめに生きてきたことに少しは誇りをもっていたのに,自分の人生すべてが間違っていたような気がして,辛くなるばかりだった.
そして,自分はいつ死ぬのだろうか,いつまで生きられるのだろうか,死ぬまでにどれだけ苦しむのだろうかと,真っ暗な「未来」を思い煩うのだった.未来など何もないと想うと,不安ばかりで気持がどんどん沈み,何の希望もなくなっていった.今すぐにも死にたい衝動にとらわれた.
あるとき,辛い気持をこらえきれずにノートに綴ってみた.ノートにも「辛い」「嫌だ」「真っ暗だ」「こんなはずではなかった」などという否定的なことばが並んでいった.それを読み返すのも辛いので,絶望的なことばをただ力任せに書きなぐっていくだけだった.
しかし,あるときふっと「自分は,こんなことばだけを残して死んでいくのか?」という問いが浮かんだという.それでは悲しすぎる.自分が生きた証がないではないか.そう思ったのが,その方の人生の物語の「転回(ターン)」だった.ともかく生きていて,まだ文字が書けるではないか,「今」しかできないことがあるのではないか.まだ文字が書けるうちに,ひとつでも何かを書き残そうと思い始めた.
翌日,病室にすがすがしい朝の光が差し込んできた.「朝が来た.光がさしこんできた.ああ,今日も生きている.ありがたい」と書いた.文才があるわけではなかったが,そのときの「今・現在」の気持,胸の奥からしみじみと感じた実感だった.
不思議なことに,ことばにして文字に綴ってみると,そのとき瞬間的に感じたことが,そのあとで襲ってくる長時間の不安や苦痛,時間にすれば何十倍も多い苦悶の感覚よりも,「本物の実感」のように感じられた.自分でも,愚痴っぽく嘆いているみじめな自分よりも,そのとき清々しい心地になった自分のほうが好きだった.
辛いときは,そのことばを何度も何度も読み返した.そして,ノートを開けなくても,何度も思い返すようになった.暗い夜中に不安で胸がふさがって泣きそうになるときには,そのことばが,生き生きとよみがえってきた.そのたびに,「朝になるまでの辛抱だ,もう少しの時間だけがまんしていれば,また朝日がさしてくるのだ」と自分に言い聞かせた.
やがて,最初は偶然に発した自分のことばが,どんどん深い意味をおびて感じられるようになり,まるで聖なる物語のように自分の人生と運命に同行してくれるようになった.「朝まで待とう,ホトトギス,朝だ,朝だ,朝日がのぼる,何で嘆くか,夜のカラス」「夜のあとには朝がくる,冬のあとには春がくる,トントン,チョイナ,チョイナ」など,そのことばをもとにした数多くの物語バージョンが生まれて,小唄調に口ずさんだりした.ときには,同じ病室にいる人の前で歌ってみせて,「こうやって夜を過ごせばいいのよ」と言いながら,一緒に笑ったりするようになった.他の人たちもそのことばに自分も励まされると共感してくれるようになり,「歌のおばあちゃん」と呼ばれるようになった.自分でつくった物語が,自分も他の人もあたため,希望を与え,励ましてくれるようになったのである.
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