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はじめに
1975年頃まで,高齢者が自宅で息を引き取ることは,さほど稀なことではなかった。実際に在宅死率と病院死率が逆転したのは1976年のことで,その後,毎年1%ずつ病院死が増加し,一方で在宅死は減少していく。寿命で命を閉じる高齢者までもが,最善の治療と見なされた濃厚な医療提供の結果,病院で死ぬ文化が醸成され,がんの進行期と診断された患者も,病院でがんと闘いながら命を落としている。こういった状況を先進諸外国と比較してみると日本の病院死の多さを異様な姿と表現せざるを得ない。
その背景には,わが国特有の事情がある。1970年にわが国は高齢化社会に突入し,その後1973年にはなんと高齢者の医療費の自己負担が無料になる施策がとられた。福祉施策の貧困さを医療が肩代わりする結果となった。高齢者の生活課題までも,病院が解決することに対して社会は寛容だった。さらに,同年に閣議決定された一県一医大構想によって,その後10数年間に医師数は急激に増加する。医師養成数は年間約4,000〜8,000人となり,1980年代になると日本学術会議が独自の専門医認定制度を創設し,臨床医たちのほとんどが臓器別,疾病別専門医となっていった。一人の医師が複数の専門医として認定を受けることも少なくなく,日本の専門医数が医師数をはるかに上回る不可思議な状況も生まれている。極論すれば,現在の日本の開業医の大部分を専門医が担っていると言っても良い。
また,CTスキャナーのなど高度な補助診断装置が日本に初めて設置されたのも1975年で,より高度な検査機器がある病院で,専門医によって治療を受けることをありがたいと受け止める国民が増えた。風邪や腹痛の患者までもが病院に押しかけ,3時間待ちの3分診療と揶揄されながらも,病院人気の高まりは病院信仰とまで表現されるに至る。
そして,取り巻く社会の変化である。高齢者の介護を主として担っていた女性の社会進出,核家族化,晩婚化,非婚化,DINKs(子どもを持たない共稼ぎ夫婦世帯),老老世帯,地域共同体の崩壊などで,死ぬ時は病院という事態に首をかしげる市民はほとんどいなかった。
ところが,高度先進医療が必ずしも高齢者を幸せにしないと感じ始めた賢明な人々もいた。日本安楽死協会(現:日本尊厳死協会)の設立が1976年である。1980年代にはホスピス運動が始まり,1990年代になると日本緩和医療学会が創設され,命の量を求めるだけでなく,命の質を高める医療のあり方が模索されるようになる。
このような社会的背景の中で,1992年には居宅が医療提供の場として第二次医療法改正により正式に位置づけられ,訪問看護が診療報酬で高く評価され始めた。日本の在宅医療元年であった。
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