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はじめに
仏教のみならず,宗教は「死んだらおしまい」ではなく,そこを出発点としたところに特徴がある.これは死後の世界とその物語りの創出にも見い出すことはできるが,むしろ,考えても仕方のないことをどうしても考えてしまう人間という存在に切り込んでいった結果でもあろう.
今からおよそ2,500年度ほど前,紀元前5世紀のガンガー河中流域に開花した仏教は,苦を出発点とした.これはブッダが成道する以前,まだシャーキャ国の太子シッダールタだったころ,宮殿の外に出て初めて苦を感じたことに起因する.これは「四門出遊」と呼ばれる伝説で,東,南,西のそれぞれの門外で,老人,病人,死人を出会ったことで,老いる苦しみ,病む苦しみ,死ぬ苦しみを体感したというものである.北の門を出たときに出家遊行者の姿を見て,太子は出家を決意することになった.これは後に生・老・病・死の4つの苦しみと,さらに愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五蘊盛苦の4つを加えて四苦八苦としてまとめられるものである.
また,四法印としてまとめられる中のひとつ「一切行苦(sabbe saṅkhārā dukkhā)」にもあるように,「すべての形成されたもの(行)は苦しみである」とする立場が最初期からの仏教の基本的な立場となる.付言すれば,たとえば『ダンマ・パダ(Dhamma-pada)』第20章「道」に「『すべての形成されたものは無常である(sabbe saṅkhārā aniccā)』(諸行無常)と明らかな智慧とともに観るとき,人は苦から厭い離れる.これが清浄な道である」(277)と説かれるように,「形成されたもの(行)」に執著することなく,それを無常であると観じることが常に求められるのである.
しかしながら,われわれ人間はその苦しみからいとも簡単に離れるわけにもいかず,その一番の苦しみは何と言っても死の苦しみであろう.なぜなら死の苦しみは,何よりも自分自身ではその瞬間を捉えることはできず,他者の死をもって知らしめられるしか手立てがないからである.
だからこそ,われわれはブッダの死からそのことを考えていかなければならない.ブッダとて死の苦しみからは最期まで逃れることができなかったからである.
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