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無癩県運動
1907年(明治40年)に成立した「癩予防ニ関スル件」(法律第11号)が大改正され,1931年(昭和6年)に「癩予防法」が成立し,8月1日より施行された.このとき,内務省衛生局予防課長高野六郎(1884-1960)は,「癩予防法」と国立療養所と癩予防協会の三者による「癩の根絶」,すなわち今後10年で癩患者がほぼいなくなるという展望を示した.それまでの隔離収容の条件「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」を削除し,全患者を隔離収容の対象とした.この法律により,患者は就業する自由を失い,周囲はこれ見よがしに消毒され,隔離に応じる以外の選択肢は奪われたが,法の趣旨は患者の救済のためであることが強調された.
癩予防協会は,法律成立直前の1931年1月,内相安達謙蔵(1864-1948)と渋沢栄一らが中心となり,貞明皇太后(1884-1951,大正天皇の皇后)よりの「下賜金」や財界からの寄付金を基金に設立された財団法人である.事務所は内務省衛生局に置かれ,「官民一致」のもと,1932年(昭和7年)より貞明皇太后の誕生日である6月25日を「癩予防デー」に,そして貞明皇太后が「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」の歌を詠んだ11月10日を「御恵みの日」と定めた.そして,ハンセン病予防には隔離しかないことを国民に訴え,患者には「皇恩」に応えて隔離に応じるように求める等,「皇恩」を強調して絶対隔離政策を支持する世論キャンペーンを行った.また,「光明会」(大谷派光明会)を設立した浄土真宗大谷派をはじめ各種宗教関係組織は,療養所を慰問,布教し,国民には患者への同情を呼びかけていった.これがいつとはなしに呼称として普及した「無癩県運動」である.「光明会」の宗派外の相談役として高野六郎と光田健輔が就任していた.
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