連載 歴史と遊ぶ・第6回
伊豆半島の旅
江藤 文夫
1
Fumio Eto
1
1国立障害者リハビリテーションセンター
pp.484-489
発行日 2014年6月15日
Published Date 2014/6/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.5001100513
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天下草創の志を育んだ伊豆地方
幼いころに歴史への興味をもたらした『源平盛衰記』で,自分にとっての最大のヒーローであった源義経(1159~1189)はいつしか色あせていった.一方で極悪人の平将門(903?~940)は新しい時代の胎動を感じさせた傑物へとイメージが変化していった.
関東地方で育まれた土地の所有を巡る契約重視の行動様式は,新しい前例のない時代の芽を育てた.平家が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185年)の秋,義経追討のため自ら京都に乗り込もうとまで意気込んだ頼朝(1147~1199)は,後白河院(1127~1192)への上奏文書でも,また九条兼実(1149~1207)に送った書状でも,「天下之草創也」と述べている.九条兼実は『吾妻鏡』と並ぶ当時の歴史資料とされる日記『玉葉』の筆者である.この1185年こそが鎌倉殿誕生,いわゆる鎌倉幕府成立のときと考えられる.頼朝は,信濃や奥州ではなく,少年期から伊豆で暮らした間に,伊豆,相模,武蔵,常陸,下野,上野といった関東武士団の求める新しい時代を意識できたのであろう.女性の財産への権利も確実に保証された地域であったらしい.しかし,伊豆で決起した頼朝を評して『玉葉』では「あたかも将門のごとし」と記述されたが,頼朝の後を引き継いで対朝廷施策を展開した伊豆の北条氏も,将門の夢は実現できなかった.後年「天下布武」を宣言した織田信長(1534~1582)も志半ばで倒され,豊臣秀吉(1537~1598),次いで徳川家康(1543~1616)により朝廷の権威は復興し,確立されていく.
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