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ある看護師のため息
達人の技が消えていってしまうことにあせりを感じる。
年配の看護師のなかに、“この人はすごい達人だ”と思う人がいるが、そういう人の技が伝達されないままに、定年でいなくなってしまうことにあせりを感じてします。
ただの先輩とは呼べないような大先輩。ぼくが生まれる以前からこの病院で働いてきた准看護士が定年を迎えた。彼の60歳の誕生月に、いつもの宴会より数段上等の料亭で送別会が開かれた。「あんたも定年かあ……、早いもんやなあ」。真っ白な髪を丁寧に櫛分けした老紳士が、つぶやくように声をかけて大先輩に酒を注ぐ。大先輩ははげた頭を酔いで赤黒くテカらせ、深々とお辞儀をして杯を受けている。恥ずかしそうでもあり、晴れがましそうでもある大先輩の表情に、定年の哀しみや未練を探ることはできなかった。時勢の変化で、若い看護者が次々と看護士免許をもって精神科の職場に戻ってきた60年代初頭、大先輩はその看護人生の最後を迎えた。最後の数年間は後輩を上司にもって過ごした。長くいた役職は解かれ降格していた。彼は虚勢や意地を張るのではなく、与えられた職務を淡々と全うしていた。
「お世話になりながら、至りませんで……。もう、この歳になりました」。老紳士を見つめ返す大先輩は、眼鏡の奥がわずかに曇った。病院の記念行事になると姿を現す老紳士は、先代の病院長時代の看護課長だった。もう八十路は越えているだろう。大先輩の大先輩なのだ。元看護課長は、きれいに枯れた老木みたいに軽やかな笑顔を見せ、昔どんな枝葉を茂らせ花咲かせていたのか想像もできない。まだ30そこそこのぼくは、どこか遠いところの一場面を見るように、この2人の様子を見ていた。
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