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はじめに
私たち医療福祉に携わる者は,常に自分たちのケアが高齢者や家族など,ケアの受け手の幸せに繋がるものであることを願っている。
ケアは,単に専門的な知識,技術を手順に添って正確に行なえば十分というわけではなく,その結果が対象者の悲しみや苦しみを軽減してその人たちの納得と満足に繋がり,辛さにゆがんでいた顔にほんの少しでも笑みが戻れば,ケアの提供者自身も納得し満足する。
私たちは,提供するケアが提供者と受け手の幸福を招く善い行為(善)で,倫理にかなったものであることを常に心がけている。
しかしながら,現実はそう単純明快にはいかない。
医療福祉を取り巻く複雑な人間関係のなかで,ケア提供者は高齢者,障害者,家族,など,当事者間の相反する期待や揺れ動く思いのあいだで板ばさみになり,困惑することも稀ではない。たとえば,基準に添ったケアが高齢者の希望に反するものであったり,良かれと思って提案したプランが家族間の葛藤を増すこともある。何が善い行為であり,何が善くない行為であるか簡単に決められないことが多々ある。
過日,外科医が家族の同意の上で末期がん患者の人工呼吸器を取り外し,「終末期患者の延命措置のあり方」について結果的に問題提起となった事件があった。この事件では患者自身の意思の表明がなかったことから,医師の行為の違法性が問われている。
わが国では延命措置に関する法律や指針がまだなく,本人の意思の確認がない以上は違法だとする意見が多い。しかし,回復の見込みのない終末期患者をモニターや医療機器に繋がれた状態にする現代医療に疑問を投げかける声も少なくない。日本尊厳死協会は延命措置をせず自然に死を迎えることを「尊厳死」とし,その権利を行使する機会を持てるように法制化することが望ましいとしている(荒川迪生日本尊厳死協会副理事長, 2006年4月11日,読売新聞)。
医療やケアにおいて判断に迷う時,常に指針となる法律や基準があって全てそれに従って実行するのが善いケアと割り切れるのであれば悩みも少なくてすむ。しかし現場で日常的に出会う事件は種々様々で,1つひとつのケアが違法か合法か,善か悪か,幸せにつながるかどうか,そう単純に割り切れるものではない。
合法的で倫理原則に叶ったものでも,本人の利益に反するものであればそのケアはむなしいものになる。まして,その行為が対象者に害を及ぼし,結果として法に違反する場合は絶対に行なってはならない。
しかし反対に,その行為が,たとえ法的には解釈の仕方によっていささか問題があるとしても,対象者の利益に叶い,満足に繋がるような場合はどう考えればよいのか。何が善いケアで何が悪いケアか,倫理的判断に迷い,答に窮する。
医療福祉の現場で,高齢者や家族への対応を,法律や倫理原則の枠組みのみで対応するには問題が複雑すぎる。直接死に繋がるものではなくても,本人や家族の尊厳を傷つけるもの,プライバシーを侵すもの,生きる意欲を失わせるもの,資源が不足しているもの,家族に大きな負担を求めるものなど,多くの問題が複雑に絡み合い,ケア提供者がどのように努力してもその解決案に何らかの倫理的ディレンマを伴うケースが少なくない。
しかし,そういった場合に,それぞれの事例の背景に潜む問題点や,当事者間の本音の対立点を明らかにできないまま日常のケアが流れ,ケア提供者の胸の奥にしこりが残ることも少なくない。この壁を乗り越えるには,一事例ごとに関係者が集まって問題を整理し,知恵を出し合い,慎重に議論を重ね,協同作業で答を作り上げていくしかないのではないだろうか。
ここに医療福祉の倫理問題の特徴があり,私たち医療福祉に携わるものの悩みがある。
複雑でデリケートな問題を抱える事例に対しては,唯一最善の解決案というものはない。ケアの提供者も受け手も,どの決定に対しても多かれ少なかれ罪責感に悩んだり,不公平感に不満を持ちながら,お互いに協力し合って1つひとつの課題への対策を模索し,苦渋の決断をしていかなければならない。その過程でほのかな明かりが見え,希望が現実のものとなる喜びが生まれてくるのではないだろうか。
本連載は,医療福祉を学ぶ学生や医療福祉の現場で活躍する実践家が,現場で出会う倫理的課題にどのように対処していけばよいかを考えるための教育資料となることを目的としている。したがって,事例の経過と解決試案を正しい解答としてそのまま取り入れるのではなく,この案を叩き台にして学習の場で検討し合い,自分たちが納得できるさらに善い案を考え出していただきたいと願っている。
事例は,臨床現場で抱える問題の本質が明らかになるように整理して提示してあるが,当事者のプライバシーに配慮し,本人が特定できないように状況を変更している。
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