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はじめに
看護実践を続けていると,自分の実践が患者にとってどうであったのか,という問いが湧いてくることがある。それは,うまくいったと思うときよりも,うまくいかなかった,もっと何かできたのではないかと思うようなときに多い。不思議なことに,うまくいったと思う実践はあまり印象に残らない。看護実践者は患者との関わりにおいて,予測されるアウトカムを考えながら行為をしている。それは,そのように関わりが進むように教育を受けているからかもしれない。
しかし,悩みながら実践をしていると,うまくいかなかったことが心の底に沈むことがある。後になって,こういうことだったのかと腑に落ち,そのようなときに,初めて自分の看護を自分で認めることができる一瞬がある。そして,経験を積むことで,実践をしながら患者の反応を捉えて,次の関わりを考えながら行為し,また患者の次の反応を捉えるという一瞬一瞬の判断と判断に基づく行為を繰り返すようにもなる。
このようなとき,レンブラントの絵が思い出される。レンブラントは17世紀のオランダの画家で,光の魔術師と称されている。レンブラントによって描かれる人物は,その光の当て方によってその人物の特徴(本質)というようなものが見る側に伝わってくる。患者の状況をアセスメントし,何をすればいいのかを判断し,何らかのアウトカムを生み出していくことは,レンブラントの光のように看護の本質を照らし出していると感じてきた。
一瞬にして過ぎ去ってしまう実践は,記録を残さない限り,誰にも伝わらない。しかし,患者の反応からそこには何らかの看護が存在していたことは明らかである。では,それはどういう看護だったのか,どうすれば他者に伝えることができるのか,という先の問いが生まれる。
山本,鶴田(2001)は「レンブラントの絵に見られる光源によって,照らし出された人物,物体がその対象の本質を自然光のもとにあるより,ありありと描き出す」とし,「独自の視点」をもたないと,事例の本質が浮かび上がらないとしている。これは事例研究について述べられている記述だが,看護の本質を照らし出すという点において,自分が感じていたことが特別なことではないと安堵し,その光源を探し出して,実践を事例研究として記述したいと思ったことを思い出す。
看護はいま,「多様な研究手法を手に入れているにもかかわらず,現実における看護実践の成り立ちを見極め,そこから看護のあり方を問い,深く考える“手立て”というものを,見失っているのかもしれない」と危惧されている(黒江,2017)。本稿では,事例報告をどのように事例研究に組み立てていくのかを検討したい。
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