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はじめに
個人は,誰とも違う唯一の存在である。また個人は,多様性の生き方を担う唯一の存在である。「患者」は個人の生き方における1つの出来事である。しかし,認知症者は,意思表示のできない「個人」として,また契約主体にもなりえない「老人」「患者」として扱われ,1980年代に入ってもなお,世間やヘルスケア/サービスの担い手たちは,認知症の人が「他者」として存在する「人」という認識において無関心であった。
当事者主権という認知症の「人」の利得にかかわる問題が,認知症介護を中心に語られるようになったのは,1990年代の入り口に入るころである。しかし,認知症当事者の事例性に対応してきちんとその「人」に向き合っていく歴史は,これから始まるかかわり手に求められる役割期待であると言ってよい。
筆者は,30年以上もこの人たちや家族の傍らにいて,認知症の「人」の「ケア」のあり方にこだわってかかわってきた。本稿では,このこだわりが何だったのかを認知症当事者性の視点から,政治・政策的に,また,これまでの活動を自分自身に問うてみるというやり方で,再考してみようと思う。
ところで,本来,「当事者性」は,文字通り認知症当事者の主権が主要なテーマであるべきである。しかし,「当事者不在」が認知症介護家族を苦しめ,その不当性に声をあげた介護家族当事者とそれを取り囲む女性たちの運動が,ようやく認知症の人の当事者性の諸課題にたどり着いたことを考えると,本論の論点は次の3つの方向からアプローチしないわけにはいかない。
第1は,認知症介護家族,なかでも介護主担者の当事者性の流れ。
第2は,認知症や介護家族の側に,誰もがなりえると考える市民の当事者性とそれを支える倫理性に根ざした介護施策や適正医療に関する新しい社会制度設計の流れ。
第3は,援助する側から差し出された判定の「鏡」に映る「認知症」から自分を取り戻す「当事者」の台頭,である。この運動が,当事者性の核心となって,第1,第2の問題を牽引していく姿になっていけばよいが,いまのところ,それは萌芽期前夜といった状況にあると思う。
なお,表題のテーマ性を踏まえて,文化的・歴史的文脈を重視し,老人,高齢者,ぼけ,痴呆,痴呆性,認知症といった,当時,用いられていた用語をあえて変えないことを断っておきたい。
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