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はじめに
日本の乳児死亡率(年間の1000出産あたりの生後1年未満の死亡数)の低下は,1920年あたりから始まったという認識は,共通のものとなっているといえよう1)。人口の増減は国家の消長に強く関係するという当時の考えから,乳児死亡の増加も国力の低下につながるものとして理解され,その改善が要望されるようになったわけである2)。
しかし一方で,5歳以上の年齢階級の死亡率低下の度合はこの時期,減退あるいは停滞していた3)。また,現代の医学水準から考えて有効な医療技術はほとんど存在しておらず,西田は,1920年代以降のわが国の乳児死亡率の低下に対して,医療技術が果たした役割はかなり小さかったと考えられると指摘している3)。
それでは,医療技術の果たした役割が小さく,公的な母子保健の体制も不十分だったこの時期に,なぜ乳児死亡率は低下を続けることができたのであろうか。
伊藤は,1920年から1930年にかけて,農村部であっても近代産婆の普及が著しかったところでは,乳児死亡率の低下が観察されたということを,実証的に明らかにしている4)。また斎藤は,1930年以降を対象に,母子愛育会の事業と乳児死亡率,死産率の関連を検討し,母子愛育会は戦前農村において乳児死亡率を低下させることのできる仕組みで,それは近代的な衛生観念をもち込んできた助産婦,すなわち近代産婆の貢献と基本的に同一であったことを指摘している5)。
これらのことから,筆者は戦前農村部における乳児死亡率の低下への近代産婆の貢献に注目した。本稿では,戦前の島根県農村部における乳児死亡率の動きを近代産婆の貢献との関連で検討する。なお,現在,「産婆」「助産婦」は「助産師」と改称されているが,本稿では各時代を反映するため,その時代通りに表現している。
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