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はじめに
2002年,私の診療所でダウン症の子どもが生まれた。23歳の母親は,分娩の1か月前に知り合いを通じて,分娩の希望で来院した。新生児の祖母にあたる人が近くの大学病院に入院し,心臓疾患の手術を行なうことになっていた。少しでも母親の傍にいたいという理由で私のところで分娩することになった。結婚前は母と娘の2人だけの家族であり,一部上場の企業に勤める青年と結婚,シンガポールに海外派遣中のところ,分娩のために里帰りであった。
ダウン症の子どもが生まれて,この若い母親への重い告知は躊躇された。肉親の唯一の家族は心疾患術後まもない身であり,夫は海外にいる。子どもが生まれて帰国し,誕生5日目に告知することになった。
事実のみを伝えたところ,この一流企業に勤務の父親は,この世の終わりのようなことを言い出した。会社を辞めなければならない。これからの人生を考えなければならない。この子のために最良の医療を受けさせ,この子が生きていくために自分を犠牲にすることを惜しまない。趣味も希望をも捨てるようなことを言う。
ショックと興奮の嵐の中にある父親に,障害児を持ったからといって,生き方を変えたり,人生の目標を変える必要はないと伝えた。それから,素直に障害児の居る生活を受け止め,家族として共に生きていく父親の姿勢こそが大事であること,健常児といわれる子どもたちに悩まされている父親はこの世に沢山いること,ダウン症の子どもの愛くるしさ,ダウン症の子どもの音楽的才能,リズム感,ダンス能力のすばらしさ……。
障害児たちの姿を見るたびに,障害とは何だろう,健常とは何だろう,絶えず考えさせられているというようなことを話した。
退院後,この家族は毎月手紙をくれる。子どもを中心に家庭が変わっていく。彼が会社でダウン症の子どもを持った事情を説明したところ,会社はただちにシンガポールから東京に帰京を命じ,社宅を与え子育てに協力するということであった。
40年前に,おぎゃー献金の考えがスタートした時代には考えられない社会になった。障害児と家族を育てることに社会が参加することになった。
1年後,この父親はこのときの経緯をエッセイに書いて,その巧みな文章力もあって,日本医師会賞に輝いた。
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