連載 水俣からのレイト・レッスン・6
水俣・芦北地域戦略プラットフォームを核とした市民参画・協働の場づくりと「水俣学」
宮北 隆志
1
1熊本学園大学水俣学研究センター
pp.1004-1009
発行日 2012年11月10日
Published Date 2012/11/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1664102011
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公害の原点・水俣
チッソ水俣工場が1932(昭和7)年以降,アセトアルデヒド製造工程からの廃液として,水俣湾そして不知火海一帯に垂れ流した有機水銀は70~150トンとも,それ以上とも言われている。チッソ付属病院の細川一院長が「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と水俣保健所に届け出をした1956(昭和31)年5月1日,後にこの日が水俣病公式確認の日とされたが,それから56年の歴史が刻まれたにもかかわらず,いまだに水俣病は終わっていない1)。
国と熊本県の賠償責任が初めて認められた2004(平成16)年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決以降,熊本,鹿児島両県の認定申請未処分者は8282人まで増えた(2010年7月末時点)。そのうち約半数を50代以下(胎児性,小児性世代)が占めると言われている。また,2005(平成17)年11月に交付が始まった熊本県の新保健手帳交付者も2万7000人を超えた。このうち公害健康被害補償法にもとづく水俣病の認定申請を取り下げて交付を受けた人はごくわずかで,認定申請者の数を減らそうとした国・県の思惑は大きく外れた。
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