連載 人間と教育・16
ゆとりとタイミング
上田 薫
1
,
加藤 由美子
1前都留文科大学
pp.246-247
発行日 1994年4月25日
Published Date 1994/4/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663900814
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会議で激しくやりとりしているときでも,スポーツの息づまる試合中でも,とにかくタイミングを失すると,それだけで致命傷を受けてしまうことが多い.そのことは考えてみれば自明といってよいことであるのに,どういうわけか思いのほか重大視されていないのである.生気を欠いた低調な展開ではさほどのこともないのかもしれないが,緊迫感あふれたいきいきした場では,わずかでもタイミングが狂えば,もう取り返しようがない.これは時間の上でのデリケートな差異の問題なのだが,空間においてもやはり同じように,微妙な差異が大きな働きをすることがあるのである.同じく的に当てたといっても,どこをどう射ぬくかによって,ことの成否は全く違う場合があるから油断ならぬ.たとえば,もっとも得意とする個所のすぐ近くに苦手な場所があるという指摘など,きわめて示唆的である.
ほんとうの勝負がこういうぎりぎりのポイントで争われるのが,人間の生の真実だとすれば,楽に無難にと考えることはもちろん,必死に張りつめてただがんばるというのもだめで,ゆとりをもって事に対しながら,ここぞというところへ機敏に重点的に力を集中できることこそ,なにより肝要といわねばならぬ.このゆとりはまた,持ち駒を豊かにプールしておくというか,遊びの心を生かすというか,最後の最後まで,いつでも強烈な転換の余地を残し続けることだということができよう.
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