NURSING EYE
これからの看護―日米の看護教育を経験して
吉田 文子
1
1東京都済生会看護専門学校教務係
pp.1141-1145
発行日 2006年12月1日
Published Date 2006/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663100554
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はじめに
私は,看護教員として2校に計7年間勤務した後,New York市マンハッタン島にあるNew York University(以下,NYU)の修士課程に進学し,2004年5月,看護教育学プログラムを修了して帰国した。
これまで私は,看護の対象は「人間」であると言いつつも,そこでの「人間」とは日本人であり,あるいは日本で生きる人であって,日本人として生きてきた私が想像できる範囲の人間であった。しかし,NYでは,人種と宗教が多様に混ざり合っていて,その中に人々の暮らしがあった。私が当たり前だと思っていた日本での生活体験からイメージできるものは,どちらかといえば特殊なものなのかもしれないと感じるようになった。
留学中は,米国の大学院生としてウガンダ政府のエイズ対策を支援する修士プログラムに参加し,日本のかつての教育現場と同じ光景に出合った。NYU看護学部生への教育実習を体験し,彼らの臨地実習から,これからの日本の看護教育の発展には何が必要かを多少なりとも感じることができた。
今日,日本では臨床看護技術能力の向上に関して熱心な議論がある。しかし,技術・技能向上の必要性は説かれても,その具体策にまで踏み込んだ議論にはなかなか出合えないと感じている。そこで,本論では米国での体験に触れながら,日本での臨床看護技術能力の向上に関する具体策をめぐる議論の一助となるべく私見を述べたい。
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