特集 保健婦現代史―そのあゆみとゆくて
第Ⅱ部 私の保健婦ノート
国保保健婦の世話係として
箕田 アサノ
1
1愛知県立高等看護学院
pp.68-71
発行日 1967年1月10日
Published Date 1967/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662203828
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極度の物資欠乏のなかで
私が国保保健婦に直接の関係をもったのは昭和19年から23年までのわずかな期間のことである。そしてそれは第一線の活動ではなく長崎県国保連合会の保健指導員という,いわば国保保健婦の世話係という立場の仕事なのである。
長崎には昭和17年1月に開所された「九州保健婦養成所」があった。これは経済問題や医療問題で苦しんでいた農村が男手を戦地にとられてさらに困難を加えていくのを見て,銃後の農村へ保健婦を送ろうと,九州各県の社会事業協会が,16年7月の保健婦規則が公布されるのを待ちかねたようにはじめた共同事業であったのである。その開設の準備や運営の世話を直接担当されたのが現在公衆衛生院の看護学部長内田靖子先生だったのである。当時は明治大学出身の熱血あふれる社会事業家としてお顔見知りになった。私は三菱長崎兵器製作所に保健婦としてつとめるかたわら,遊びに行ったり,お手伝いをしたりしながら2人で気焔をあげていたものである。先生がこの仕事を続けるからには,やっぱり資格を持たなければと堅い決意で聖ルカ入学のため東京へ帰られてのち,私は正式に養成事業に関係するはめとなってしまった。
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