ベッドサイドの看護
事例を通して患者の‘訴え’を考える
西山 和子
1
1国立三豊療養所
pp.431-434
発行日 1983年4月1日
Published Date 1983/4/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661922922
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一昨年の“厚生の福社”紙上で,米国のバーグ教授の指摘であるという‘病院をもっと快適に’という一文を読んだ,細かい指摘がいろいろとなされていたが,1例を引用させていただくと,‘……病院の……物的説備の悪さは耐えるとしても,問題はサービスの質の劣悪さである.例えば自分の体温がどうなっているか等と,自分の状態に関するいろいろの情報に関心を持つと,悪徳患者のような目でみられ……医療従事者が患者に接する態度の基本は,病気で入院すると,たとえ成人であっても,正常の判断力を持たない援助を必要とする,あわれな子供か禁治産者と同じように見なされる点である……’
20年余にわたる自分自身の看護経験を振り返ってみる時,これらの言葉はずっしりと重く胸にこたえてくる.‘看護は患者の人格を尊重して’‘患者のニードにそって,‘患者の心の痛みに共感して’等々,努力目標を必死に追い求めながら,しかしそれらは日々の無数の看護場面とはなかなか一致しない.現実の看護場面では,なぜこれらの言葉は空回りするのだろうか?事例を通して考えてみたい.
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