特集 潜在看護婦の活用
再び現場に復帰して—体験レポート
看護を自分の一生の仕事と考えて
斉藤 たきえ
1
1日赤医療センター消化器病棟
pp.58-59
発行日 1974年1月1日
Published Date 1974/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661916920
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岐阜の養成所を卒業して,看護婦免許をとったのが昭和20年です.岐阜県立医大や農協の厚生連の診療所などへ勤めた後,岐阜の国立の療養所に移りました,そこには10年ほど勤めて昭和38年に退職したわけです.そのころ,もはや人手不足だったので,なかなかやめさせてもらえなくて,結婚して子どもができて産休に入っても‘休職にするからやめないでほしい’といわれたんですけれども.
そのころは,結婚しても,田舎ですから子どもの世話はお婆ちゃんにみてもらうとか,近所に頼むとかして,ほとんどの人が勤めていました.私はそれができなくて,やめてしまったんです.
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