この道
看護婦と家庭生活
小川 忠子
1
1東京慈恵医大病院
pp.60-61
発行日 1965年7月1日
Published Date 1965/7/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661913654
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私がこの道を選んだ動機は母が中風の祖父と老齢の祖母に,10人からの若者の炊事洗濯いっさいを一人でやってのけての間々につくした看護を見ていたのと,脱肛のひどい祖父は下剤のみで排便をつけていたので発病後も不自由な足で柵を伝いながら便をこぼしこぼし便所に行く。その後の脱肛の仕末が大変,どうしても母でなければうまく納まらなかった。どんなに忙しくても嫌な顔を一つせず心ゆくまでやってあげていた。私はこの便の仕末を平気でやれるよう修業をしたかったのが直接の原因で,間接にはシベリヤ派遣の日赤の看護婦さんのことを一緒に従軍した親戚の薬剤師から聞いてシベリヤの夏にちょっぴり憧れたのである。
看護婦になって一番つらかったことは入学して3日位から12時間勤務中立ち通しのため踵が痛み1週間位爪先きで歩行したこと。情けなかったことは痔の手術前処置の若い男の子の下部剃毛,嬉しかったことは自分なりに誠心誠意でやった看護を受け止めて頂けたこと,困るだろうと考えたことは将来付添看護をして無口の中年紳士の場合にはどんなふうに話題を持って行くのだろうと心配していたこと。
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