文学
されどわれらが小説は—柴田翔の文学
平山 城児
1
1立教大学文学部
pp.76-77
発行日 1964年11月1日
Published Date 1964/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661912449
- 有料閲覧
- 文献概要
新聞は如何なる古新聞でも,例へば私物の泥靴を包んでおいたぼろぼろの新聞まで読み尽してしまった。食器類の下に誰かが投げ込んでおいた半年程前の内閣のパンフレットを手にした時は,殆んど一週間も掛ってそれを読み返しよみかへしした。独ソ戦の新段階とか燃料確保とかいふ,今はもう大分古くなってゐるニュースを非常に興味をもって読み味はった。食事時間の数分前,食卓番が配食の準備にごった返してゐる食卓の固い木の長椅子に坐って,メンソレータムの効能書を裏表叮嚀に読み返した時などは,文字に飢ゑるとは,これ程までに切実なことかとしみじみ感じた。
これは,太平洋戦争のとき,学徒出陣で死んで行った学生たちの記録をあつめた,「きけわだつみの声」から引用したものである。ここに書かれているのは,戦争中で,しかも兵隊であるという,二重の局限状態であるから,特殊であるには違いないが,現在でも,これに似た経験をする場合もある。旅行などへ行って雨に降りこめられて,所在のない場合など,日頃は満足に読みもしなかった,新聞の政治経済面や,ごくつまらない広告の隅々まで,くりかえし読んでしまったりすることがある。読書の習慣のない人びとには,こうした「文字に対する飢え」という状態は少しも理解できないかも知れないが,読書家にとっては,これは痛切な問題である。
Copyright © 1964, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.