発行日 1954年9月15日
Published Date 1954/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661909637
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私がその上野寛永寺近くのつゆ子さんの家をたずねたのはもう夏の夜も大分更けかけた時分でした。いつものように階下の料亭の女中さんに「どうぞ」と階段の上り口でおじぎされると,私はひとりで静かに二階のつゆ子さんの母子の部屋へとあがつていきました。と,電燈が消えて開け放された部屋の中には月の光が一杯にふりそゝいで裾ぼかしの白い蚊張がつゝてありました。まるでまのあたりに碧い海の底をみるような……。
「今晩は……」と小さく言つてみましたが蚊張の中にはかわいゝお孃さんの寝姿があるきりでつゆ子さんの姿が見えません。(あら,どうしたのかしら)思わず口の中でひとりごとをいつて,よくよく蚊張をとおしてむこうの窓辺をみると,何か思いをひそめて月をみているつゆ子さんの,ぼつと立つている,その後姿に私ははつと胸をつかれてしばらくは息をのみ言葉も出ませんでした。(やつぱり,ひとりで子供を育てながら生きることは大変なのね,つらいのね。ひるまはがまんづよく,忙がしさにまぎれて過してても……)と,思い出したように風がかすかにふいて蚊張がゆれるとつゆ子さんの溜息が声になつて出ました。
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