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NHKで,歌人与謝野晶子をヒロインとして連続ドラマ〔みだれがみ〕が去年の4月以来放映されている.日本人なら彼女の歌の一首や二首は誰でも知っているが,しかしこの歌人が家庭生活においては,11人の子供を生み育て,気難かしい夫に仕えて,妻として母として血の滲むような多忙な一生を貫ぬいた女性であったことは,案外知られていないのではあるまいか.現代のように1人か2人の子供を計画出産して〔おん母日傘〕で育てている教育ママでは全くなかったのである.しかも2度にわたって双生児を生んでいる.5度目の出産では彼女の体力も弱り果て,泣く泣く里子に出している.そして彼女はそれを生涯の心の負目として苦しむのである,しかもこうした生活は夫がサラリーを運んでくれ妻は家事と育児に専心すればよいという境遇で与えられているのでは決してない.夫与謝野寛(鉄幹)は,雑誌〔明星〕を刊行してロマンチシズムの新歌風を興した詩人であるが定収入がほとんどなく,自然主義文学の気運が拍頭して〔明星〕が落目になると家計はいよいよ窮迫してくる.晶子は炊事,洗濯,育児のかたわら数種の内職原稿から針仕事まで引き受け,文字通り眠る暇がない.しかも夫には家計と育児の心配をさせないため寺の離れを借りてそこで勉強をさせている.といっても,夫寛との夫婦仲は決してうまくいっていたわけではない.寛は感情のさしひきの烈しい詩人気質をむしろ売り物にしていた人で, 〔明星〕の閨秀歌人は,みなわが恋人,と心得ているような男だから女性関係の出入りが絶えない.有名な山川登美子,増田雅子をはじめとして恋愛関係にある女性を,むしろ公然と,妻の前に示す.晶子は激しい嫉妬に苦しめられ心の中で血みどろな闘争を続けながらも,愛する夫をほかの女に奪われたくないというきわめて単純素朴な感情から最後まで夫に仕え,妻の座を守り通すのである.この気取りのない天衣無縫の感情と行動の女らしさは比類がない.しかも彼女は,自分をも含めてこうした人間の暮しの苦しさ,悲しさ,辛さをじっと大きな眼で見ているのである.それが歌になる.そして一生の間に蚕が糸を吐くように幾万首かの数えきれない短歌を詠み,詩を作り,小説を書き〔源氏物語〕と〔栄華物語〕を現代語訳し,新聞雑誌の短歌評まで引き受けて一家を支えたのである.近頃スーパーウーマンとよくいうけれど2,3人の子供を抱えただけで仕事と家庭は両立するや? と悩んだりちょっと夫に問題が起こるとすぐに離婚を考えたりするような私および私たちの仲間などは,この巨星のような大先輩,明治大正昭和と三代を生き抜いて65才で永眠した女流歌人に較べると,なんともチャチでお粗末,一廻りも二廻りも役者が違うような気がする.
茂木草介氏の〔みだれがみ〕は現在放映中のテレビドラマの台本に多少手が加えられたものである.〔過去に実在した万人憧れの晶子の実績を曲げることはしないが,あくまで創作的フィクションであり,事実を書くのではなく晶子の真実を書く〕という意図で執筆されている.上巻は堺の和泉堂(実名は駿河屋)という著名な和菓子の老舗に生れ育った鳳志よう(晶子の婚前の実名)の少女時代から書きおこして,彼女が東京の鉄幹を慕って家出を決意する24才頃までが書かれており,下巻では家出前後と,鉄幹の先妻との経緯,結婚,夫婦生活を中心に出産,子供たち,家事の実際,山川登美子の結婚生活と与謝野夫妻とのかかわり合い,〔新詩社〕同人たちの集りやその運動の盛衰が書かれ,特に石川啄木の文学と生活がクローズアップされている.なお上巻には,志よう子の生活と交互に寛の少年,青年時代の心と肉体と詩の放浪遍歴の絵模様が描かれている.晶子が生み育てた子供たちは,長男の医学博士,次男の駐伊大使をはじめとして現代日本の名門を占めているので,そうした遺族への配慮もあってか,茂木氏の筆は微妙な心づかいに揺れて,きわめて穏健である.それはまたNHKのドラマという公共性をも十分に考慮されてのことであろう.現今よくある暴露物のように筆が走りすぎていない点は好感がもてるし,テレビで映像となるときは,時代考証の行き届いたこまかい演出や,役者の演技の真剣さ,ゆたかさと相侯って非常に節度ある余情に富んだ画面を作りあげてはいるけれど,本として,読物として読む場合には,突っこみが足りぬ,きれいごとに終っているという感想は否めない.一口にいって,読物としては体をなしていないのである.ついでながら11人も子供を生んだのであるから,テレビでも出産の場面が何度か出てくる.もちろん自宅分娩である.当時の"産婆さん"は大変な権威を持っていて家中がおろおろと彼女1人を頼りにして三拝九拝して送り迎えしているし,産婆の方は悠々と突き放した態度で落着き済ましている.つぶれた丸髪に黒い裾の着物,という中年の婆さんのイメージであるが,当時としては数少ない職業人の婦人の雰囲気がふんぷんと出ていて面白い.当時の与謝野家はこの産婆への心付けにさえ頭を傷めねばならぬほど貧乏だったのである.
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